工学・技術と作品表現の関係について―技藝フェスに参加して

2019年3月14日に、渋谷スクランブル東工大のチーム志向越境型アントレプレナー育成プログラム(CBEC)東京藝大美術学部主催の技藝フェスというイベントで展示とトークをさせてもらいました。CBEC運営委員の倉林先生にお誘いいただいたのですが、他のゲストが、多分高校生のときに視聴覚交換マシンを体験して以来ファンになっている八谷和彦さん、スープストック東京社長でアーティスト支援アプリArtstickerをされている遠山正道さん、普通でない演劇を会社NPOの代表としてプロデュースされている中村さんと伺って、ぜひにと思って参加させていただきました。

私もとても楽しくお話させていただきましたが、東工大の学生さんに「技術担当の私がものわかりが良すぎてつまらない」というツイートがあったと聞いたのと、対談では工学の意義を強調しなかったので書きます。2013年にもメモ を書いていましたが、今回は、東工大の学生向けに書きます。

分かりにくいところ、間違いや危険な部分のご指摘、感想など、何でもいただけたらありがたいです。

技藝フェスの内容

八谷さんが選ばれた東京藝大の学生さんの作品の展示と、会場に設営できない作品のプレゼンテーション、東工大CBECの講義「エンジニアリングデザインプロジェクト」のグループワークで東工大生と藝大生がチームで作ったプロトタイプの展示、長谷川研の3DCGキャラクタ表現とぬいぐるみロボットの技術デモの展示を行った後、技術×藝術のテーマで話をしました。登壇者の活動の紹介からはじまり、アートと経済と持続性、演劇とバーチャルリアリティの表現と身体、技術デモを作品と呼ばない理由と著者が多人数な訳、CBECの講義で東工大生と藝大生で言葉が通じない話など、話は多岐にわたり、私も時が経つのを忘れるほど楽しい時間を過ごしました。

自分について

私は技術を見せるためのデモは作りますが、アートやデザインの作品はありません。バーチャルリアリティというメディアの技術を研究しているので、メディアを用いた表現や作品を作る方と関わる機会を得ています。特に2006年から5年間原島博総括のさきがけ、CRESTという国の研究プロジェクトに参加させていただき、その後もバーチャルリアリティ学会アート&エンタテインメント研究会や情報処理学会エンタテインメントコンピューティング研究会の活動でそのような機会がありました。そのため、技術のデモンストレーションと、アート、デザイン、エンタテインメントの作品の共通点と違いを考えるようになりました。

芸術(アート)・科学(サイエンス)・デザイン・工学(エンジニアリング)の関係について

N. Oxman 2016 にこの4つの図があったりして注目されていますが、私が聞いたのは延岡 2016(まだ元の論文を読めてない)の図に近いもので、アート&エンタテインメント研究会で渡邊淳司さんに教わったものです。自分の理解は次のとおりです。

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芸術、科学、デザイン、技術のめざすところ

・芸術とデザインは、共に作品や製品という具体例を作る。
・科学と工学は、共に再適用可能な(一般的な、前提条件が成り立てばいつでも成り立つ、使える)法則や手法を作る。
・芸術と科学は、共に対象自体の(自分が信じる)価値のために作る。
・デザインと工学は、共に誰かに役立てるために作る。

また、具体的な創造的活動や人は、これらのグラデーションの中のどこかにあるもので境界線はありません。(芸術と科学の境界の例は、フラクタル集合の探求とか、錯覚とか)

作品はなんの役に立つか

ところで、科学と技術の法則や手法は広く適用できるので役立ちそうですが、作品はなんの役に立つのでしょうか?

よく、アートの役割は気づきを与えてくれるとか、生活や社会を批判する機能を持つとか言われます。私も同感ですが、それ以前に、作品という具体例は、お手本として役立ちます。芸術的な建築は住むのに不便かもしれず、デザインもアートが入りすぎていて(ユーザを選びすぎて)自分には向かないこともあります。ですが、作品を見たり触れたりすれば、作品自体を体感するとともに、制作者が目の前にある作品をそのように作ったという事実を体感でき、制作者がそのように作った意図と手法を考えつつ、その効果(作品を鑑賞して感じる感覚)を体験できます。意図や手法だけでなく言葉にできない効果が体験できるので、作品、製品、デモ等を自分で作る際に参考になります。

お手本が想定を超えていると、そこから衝撃を受け、気づきを得たり、人生が変わってしまったり、批判を受けたりもするというのが、よく言われるアートの社会的役割だと思います。 

一般的な法則や手法を作る科学工学を含む学術=論理的な説明と、作品の関係を私は次の図のように捉えています。

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作品、表現手法、学術、自然科学の関係

図の上部が上から見た平面図で、下部が横から見た側面図です。論理的な説明が適用可能な範囲をべたーとカバーするの他に対して、作品は具体例なので1点ですが、周囲を照らしてくれると思います。作品の表現手法は技術なので土台を持っています。一部の土台の一部は学術や自然科学が追いついていますが、説明できていない手法もあると思います。

一方、学術は論理的な説明なので、再適用できる強力な道具です。ただし自然言語による説明なので適用範囲と解釈を間違えず正しく使うのは科学より難しいです。

科学(自然科学)の法則や手法はカバーする範囲が狭いですが、適用範囲や法則が数式と論理で書け、条件を満たせば必ず成り立つので、一番適用しやすい道具です。これもグラデーションで数学や物理は数式で書けますが、生物とか心理学になると自然言語が増えてきます。

アーティスト・デザイナと科学者・工学者の指向の違い

作品を作るのと、法則・手法を作ることは、大きく違います。工学者からみたら作品は一つの事例に過ぎないですし、アーティストやデザイナからしたら法則や手法は手段であって目的ではない、というのが普通のはずです。理工学系の学生さんと芸大美大の学生さんでPBLをするCBECの授業で、最初はお互いの日本語が通じないと聞きましたが、指向が大きく違うので必然と思います。理解するには、相手のめざすところが自分の想定外かもと思って話を聞くことが必要と思います。

製品やサービスには両者の協力が不可欠

具体的な製品やサービスを作り始めると、手法だけ、作品だけでは不足です。製品やサービスを作るためには、一般的な法則や手法が適用できない多くのことを決めなければなりません。例えばコンピュータの設計法だけでは、キーボードの素材やアイコンの色は決まりません。こんな時、沢山のお手本(様々な作品)を見て、自分の作品に活かしているアーティストやデザイナならば、理論的な理由がなくても決めることができます。
一方、量と品質が必要になると一般的な法則や手法が必要になります。自分の手を離れて作られる製品やサービスの品質維持には、誰でも利用できる一般的な法則や手法に落とし込む必要があるからです。

工学部の学生さんに言っておきたいこと

作品に圧倒されても

工学を学ぶ学生の中には、企業の製品や美大・芸大の学生の作品を見るとその完成度の高さに圧倒され、自分のやってることの価値がわからなくなる人も居ると思います。そんなときは、ぜひ科学技術が再適用できること、一つの事例ではなく、普遍的な法則・手法を作っていることを思い出し、その価値を考えて欲しいと思います。それぞれの研究は非常に小さな断片でしかありませんが、科学技術は組み合わせ積み上げることができます。この積み上げの一端を担うこと、組み合わせ積み上げる方法を身につけることの価値です。

東工大は技術を教えない

私は情報系の学科を卒業しましたが、プログラミング言語を講義で教わった覚えがありません(単に寝てただけかも)。一方で、コンパイラ設計論を学びPL1というプログラミング言語コンパイラを改良する実験をしたり、計算機の構成法を学びロジックICでCPUから計算機を作り自作のアセンブラでプログラムを書いたりする実験はしました。

理論や数式とそれらを用いた問題解決法の習得に時間をかけるのは、具体的なものづくりの技術を身に付けるよりも、背景にある理論とそれらを組み合わせて新しい技術を生み出す方法を身につけることを目的にしているからです。
もちろん、様々な技術を身につけたり量産の方法を知ることも重要で、特に、新技術が何に役立つか探すためには、色々な技術を身につけた上で一通り技術の現状を知ることが必要だと思います。けれど、技術の背景にある理論の理解なしには、新しい法則を見つけ手法生み出す技術者にはなれないと思います。 

発明は必要の母

「発明は必要の母」ということを、技術史学者 M. Kranzberg が言っています(スウィフト、エジソンの言葉と逆)。発明=新技術は新たな必要の元になる。なぜなら、一つの発明がうまく機能するためには、関連する多くの技術が必要になるから。ということだそうです。一つの技術を発明してもすぐに役立つことは稀で、他の技術や世間の状況を見ながら応用先を探し、時には必要な周辺技術を発明しなければ役に立たないのです。

ということは、技術が先に発明されて、新理論や新手法のために後から利用目的を探すのは良くあることで、おかしな事ではないわけです。必要が沢山見つかってしまう用途は短期的には望み薄です。広く目的を探すことが発明の普及には欠かせません。

自分の専門だけでなく、広く技術の状況を知って、どこか役立つところがないか探ることは、科学を誰かのために役立てたい工学者にとって必要な活動だと思います。

事業以外で技藝が相互を必要とするとき

作品制作が工学を必要とするとき

芸大生は素材の扱い方(=ものの作り方)を一通り学ぶらしいですが、既知の手法に飽き足りなくなれば新手法の発明をします。先端芸術表現、ニューメディアアートの分野です。こうなると、新法則や新手法を発明する工学に近づいてきます。

また、理論や法則なしでは生活できない現代社会(例えば公開鍵暗号の使い方と安全性の理解)では、表現したい事に科学技術の法則や手法が含まれてしまうことも起こります。芸術作品を「生きていて得た何らかの体験の認識を純粋化して他人に伝わるようにしたもの」と説明するなら、日常生活が科学技術の法則や手法に依存している現代では、それらを理解し利用してこそ表現できることもでてきます。

工学が作品制作を必要とするとき

新法則や新手法を作ってもそれが応用されないと実社会で誰かの役に立ちません。高度経済成長期のような生産現場ならば、生産効率向上のための手法や法則は常に求められるため、それらは応用先に困りません。しかし、産業構造が変化して社会が多様化すると、工学者が作る法則や手法の応用先も多様になり、マッチングが大変になります。実社会の課題に取り組む事業家も勉強していますが、工学者が作った法則や手法を応用につながる形で見せることも大切になります。このための方法の一つが技術のデモンストレーション(デモ)です。
デモは、法則や手法の効果や意義、仕組みをわかりやすく示す具体例です。具体例を作るには、作品や製品を作る場合と同じく理論的には決まらない無数の決定が必要になります。こうなると、アーティストやデザイナがやっている、表現したい事を伝えるために一番良い具体例=作品を作ることを工学者もやることになります。私があえてデモ作品と言わないのは、作品といえるほど頑張って作られたデモばかりではないからです。でも作品と言えるほどのデモ、デモ作品は、新技術を伝える力が強いと思います。

デモや広報を外注するにしても、外注先に新法則・新手法とその意義を分からせないと、デモの場所、内装、ポスターの背景などの決定が、見せたい技術とちぐはぐになってしまいます。
普通の東工大生でも、作品を作ったり芸術家と協働する機会を持つと良いと思うのは、このためです。

おわりに

再適用可能な法則や手法を作り役立てることをめざす工学は、技術の応用先が量産製造工業中心だった時代には新技術を発明すれば良かったと思います。

時代が変わり、応用先を探すことも工学者・技術者の役割に含まれてきた現在、技術の効果や意義を見せるデモンストレーションも工学者・技術者の仕事に入ってきています。
芸術家やデザイナとの協働や作品や製品を作ることは、技術の見せ方を考えたりデモンストレーションを作るときに役立つ貴重な経験だと思います。また、理論だけでなく様々な技術を知ることは、発明した新技術の応用先を探したり、必要を探るために大切です。

一方で、新理論、新技術を発明できること、理論や手法を適用して問題解決できることが、科学・工学・技術者の専門性です。工学者は、その意義を再確認した上で、作品を作ることも理解できると良いと思います。