創造性教育について

すごく久しぶりですが、創造性とその教育について考えていることを書いてみます。

概要

まず、創造活動が、思いつき、試し、観察し、考え、また次のアイディアを思いつくという繰返しからなる活動であることを指摘し、失敗や誤りを恐れずに試せることの重要性を指摘する。次に人が生きる力を、社会の持つ知識の継承により得られるものと創造活動の2つに分けて考え、前者のために後者が犠牲になり得ることと日本社会の立場主義の問題点を指摘する。さらに、「意識高い系」がどうやって生まれ、どう導けば良いか、プログラミング教育、乳幼児期にできることは何か、など各論を考察し、最後にゆとり教育の理念とその実現に必要なことを考える。

創造活動とは

創造とはどのような活動だろうか?思いついたアイディアを自由に試し、その結果を観察し、考え、また次のアイディアを思いつき、試し、観察し、考える。思いつき、試し、観察し、考えるという繰返しが、創造の基本だと考えられる。

創造的な活動の典型を考えてみると、例えば芸術作品の制作プロセスはこの過程を経る場合が多い(芸術表現の捉え方についての一考察)。一見この過程をとらない作家でも、頭の中では絶えずこの過程を繰り返していると考えられる場合が多い。

ソフトウェア開発も創造的活動の典型と考えられるが、その基本のプログラミングも、コーディングし、実行結果を観察し、不具合の原因を考えて修正案を思いつき、またコーディングするという繰返しからなる。

創造活動に必要なこと

創造の繰返しは、まずなにか思いつき、試すことが必要になる。このとき、試す前に、思いつきが間違いでないだろうかとか、うまくいかないかもしれないとか心配を初めてしまうと、思いついたことを試すことができず、そのうち思いつくこともなくなってしまう。間違えても良いので、いろいろ試すことが大切だと考えられる。失敗に対する心配は、いろいろ試すことを妨げる。このため、自由に試すためには、まず、失敗しても許されること、安心できることがどうしても必要になる。

次に、結果を観察し考える時間が必要となる。試したあと、気が済むまで観察し、次の一手を思いつくまで考える。この時間をしっかり取ることがなければ、次の一手を思いつけない。ある試行が正解か不正解かということは、試行の都度分かるものではない。なぜなら現実世界では目的を達成する手段は無数にあり、どの試行がその手段の一部であるかは、ある程度進まないとわからないからだ。この段階でしっかりと観察し考える時間を取ることはとても重要だと思われる。

創造性と社会性

おそらく、人は生まれながらに創造性を持っている。我々は、試行錯誤の繰返しの末、上手く子孫が残った生物の末裔のはずだから。一方で人は社会を作る動物で、社会を維持しないと子孫を残すことが極端に難しくなる。社会が持つ科学技術、文化、しきたり、ルールは人が生きていくために大切な知識や技で、これを習得することも生きていくために大切なことだろう。こういった知識や技の教授者から受容者への伝達では、知識や技に正解があり、正確に伝達するためには、叱る褒めるなど評価を伝え、教授者の考える正解を受容者に伝える必要がある。

人が生きていくためには、社会から知識や技を受け継ぎつつ、創造活動と呼ばれる試行錯誤により実際の課題を解決していくことの両方が必要なのだと思う。

創造性の芽を摘まないために

この2つをきちんと区別し、両方を尊重しないと、困ったことになる。教授者のいうことを聞き、観察し、自己の理解と比較し、いつも間違いなく記憶する知識受容ばかりを繰り返せば、間違いを犯すことを恐れ、試行錯誤をしなくなるだろう。逆に、何も受容せずに創造活動だけを行っていれば、社会が持つ知識を活かすことができず、父母を知らない卵生の野生動物のような生き方しかできなくなる。

日本で創造性教育の必要性が高まっているのは、徴兵や高度経済成長を支える労働力を生み出すために、知識受容に偏った教育が乳幼児期から大学学部まで行われて来たことが原因として考えられる。(なぜ日本の男は苦しいのか? 女性装の東大教授が明かす、この国の「病理の正体」)は、日本の親が今でも「靖国精神」の価値観から抜け出せておらず、育った子は、誤りを侵さず立場を守るために必死になっていることを指摘している。創造性が生き物が本来持つ性質だとするならば、それを社会性のために摘み取ることさえなければ創造性を持つ社会が実現できるはずだが、立場を守る「靖国精神」に包まれた社会では自由に創造活動のための試行錯誤を行うことは難しい。

乳幼児期の教育について

赤ん坊はとにかく何でも試してみる。手足の動かし方、ハイハイの仕方、歩き方、みな試行錯誤を繰返し身に付ける。物を口に入れて味を知ったり、ソファーによじ登って落ちたりと言った試行錯誤は、創造活動に他ならない。しかし、創造性が大切だからといって、放って置くわけには行かない。下手なものを誤飲すれば窒息死するし、高所から転落する危険もあるだろう。命を守るために必要な最小限の知識は何としても伝達しなければならない。このような不幸な死が起こらないようにするためか、赤ん坊は常に保護者の顔色を伺い、危険を察知するようにできている。また保護者から離されれば危険を感じて泣く。

創造性の芽を摘まないために気をつけなければ行けないのは、不必要に乳幼児の行動に干渉することだ。何か思いつき、試しているところで、親が正解を示してしまえば、結果を観察し考え、次の一手に繋がるアイディアを思いつくの部分ができなくなってしまう。せっかく試そうと思ったことを、顔色や声色で禁止されれば、思いついたアイディアを試すことが怖くなってしまう。命や健康に関わるなど、大きな問題が生じないかぎり、乳幼児の試行錯誤を許し、安心して試行錯誤できるようにすることが重要だと思う。また、試行錯誤に親が関心を示し、喜べば、乳幼児は親がその行動を歓迎していると考え、また試行錯誤を繰り返したくなる。関心を持ち、安心させ、不必要な干渉はしない、これが乳幼児を上手く愛する方法ではないだろうか。特に質が悪いのは、親が愛情を使って乳幼児の行動を制御しようとすることだろう。乳幼児は親の愛情=親の関心と許諾の下で活動するように本能付けられている。この本能を利用して親の行動規範を子供に押し付ければ、子供は親の行動規範を越えた試行錯誤を行うことができなくなる。

もう一つ挙げるとすれば、創造活動を行う機会を増やすことにも効果があるだろう。自然の中には、簡単なものから難しい物まで様々な因果関係が織り込まれている。自然の中で遊ぶことで、少しの試行錯誤で現象の仕組みがわかって喜んだり、なかなか仕組みが分からない現象を不思議に思いつづけたりという経験を、身体を使って試しその結果を感覚する。こういった活動は創造性の原点になるだろう。スポーツも自分の身体を動かし感覚することで、身体と競技の特性を探りながら身体の動かし方を知るという楽しみ方ができれば、創造活動だと思う。

知育玩具やテーマパークのアトラクションでは、設計者の設計通りの体験をして楽しむだけになり、アイディアを活かすことが難しいかもしれない。それでも、その玩具やアトラクションの通所の楽しみ方を越えた楽しみ方を見つけたり、思いもよらない組合せを見つけることができれば創造活動となる。こういった活動を親が面白がることで子供も面白いと感じ、また新たな創造をする動機にもなるだろう。こういった時にも危険がなく著しい迷惑が周囲にかかることがなければ、好きなように試行錯誤できることが大切である。

学部3年までと研究室配属後の断絶

従来(少なくとも1990年代)の日本の教育では、大学3年生までは授業を受けて試験で良い点を取るという勉強=知識受容活動が定着していた。この制度で学生は、学部4年になり研究室配属に配属されると、突然卒業研究を行うことが求められ、それまでとは全く異なる創造活動を求められることになる。このため、研究テーマが決められず研究に手がつかず、6月~秋頃までに研究室に行くのが辛くなるということがよく起きていた。これが、近年すこし緩和されていると感じている。創造性教育の成果かもしれない。

意識高い系をどう応援したら良いか

近年、イノベーション教育、創造性教育という掛け声と合わせて、「意識高い系」と呼ばれる学生が現れている。意識高い系学生は、自分が創造的であり、創造性を大切にしているかのような振る舞いをするが、実際には創造的でない学生のことを呼ぶ(実際に創造的ならば、普通に「創造的な学生」と呼ばれる)。例えば、付箋紙やアイディアノートを持ち歩き、何か思いつけば書きとめ、アイディアの説明やディスカッションをどこででも始め、話し合いでは積極的に発言し、PBL(プロジェクトベースラーニング=ものづくりや問題解決などを行うことによる学習)の授業や学外のアイディアソン、ハッカソンといった創造性教育に片っ端から参加しているが、その内容はネットにあふれる典型的なアイディアにとどまり、実物や現場が持つ固有の事象に基づく創造的な内容を持っていない。というような人のことだ。このような学生を近年たまに大学で見かける。

このような現象がなぜ近年起きたのだろうか?根拠はないが推察を書いてみる。
2000年ごろに、イノベーションと名の付く研究科が設立されている。また、中学・高校での創造性教育ゆとり教育の世代がこの頃に大学3年生になっている。これらの学生は、乳幼児期0ある時点まで、知識習得型で試験で間違えないことに価値を置く教育を受けていたのが、途中から創造性を持つ必要があると言われて、創造性教育を受けている。知識受容が得意な学生が創造性教育を受け、形から入れば、まずは「意識高い系」にならざるを得ないだろう。創造性についての知識を受容し、教授者のやることを真似て技法を習得することになる。しかし、乳幼児、幼少期から続く知識受容の教育により、誤りを犯すことがすっかり怖くなっているため、ランダムに現れるアイディアの素が意識に昇ることもめったになくなっている。観察し考えることも慣れていないため、次の一手となるアイディアを得ることもできず、記憶しているパターンから妥当そうな物を取り出すが状況にあったアイディアではない。これが、「意識高い系」の内部で起こっていることだろう。

しかし、「意識高い系」の努力をばかにしてはいけない。これまで創造活動をしてこなかったのだから、すぐにできるはずはないが、始めなければいつになってもできるようにならない。まずは「意識高い系」になり、自己が靖国精神や立場の呪縛により誤りを犯すことを恐れているという現状を認めることからはじめることが必要だろう。その上で、上手く行かなくても試行錯誤を周囲が尊重し、例え大きな失敗をしても許し、冷静な観察と思考から生まれる次のアイディアに期待する。このような環境が用意され、創造活動を続けることができれば、発想の抑圧が減じ、観察し考えることにも慣れ、創造活動が次第に得意になっていくのではないだろうか。

大学での創造性教育

大学でのPBLを担当して思うことは、できるだけ、禁止事項を少なくし、誤りがあっても良いように余裕を持たせ、自由に行うのが良いと思う。意識高い系を生むだけだと批判を受けるかもしれないが、講義を通じて創造活動の価値を公認するだけでも意味があると思う。また、創造活動には時間がかかるので、科目数が増えすぎないような工夫も必要だと思う。アイディアを出してまとめてプレゼンテーションするのでは試行錯誤のやりようがないため、創造活動は難しい。PBLを行うならば、何らかのものを創造するプロジェクトであることが必要だと思う。

プログラミング教育との関係

残念ながら、日本人にはプログラミングが得意な人が少ないという声を多くの情報系の大学教員から聞く。プログラミング教育が遅れているからかもしれないが、ここでは別の原因の指摘を試みる。

プログラミングでは、書いたプログラムの動作を確認し、意図と異なる部分を修正するデバッグという作業が重要だ。デバッグができるかどうかが、プログラミングできるかどうかを左右すると言えると思う。デバッグでは、自分の書いたものが意図通りでない(=正解でない)ことを前提に、プログラムの動作を観察し、問題点を見つけ、解決策を考え、修正する必要がある。このため、間違えても良いので試すことが重要で、試して直してまた試すをどのくらいのサイクルで行うのが良いかの感覚を得ることがデバッグを手早く進める技能の基礎になる。私もC言語入門の授業上級編を担当したことがあるが、コンパイラのエラーメッセージの意味やデバッガの使い方を最初に教え、とにかく試行錯誤を沢山繰り返せるようにすることを中心に行った。結果、ロボット系サークルのプログラミングの得な学生によると、受講生は、プログラミングが難しくあまりできなかったという感想を持っているが、プログラムさせてみると従来よりよくできたそうだ。

ゆとり教育の理念と創造的社会

1980年からゆとり教育と呼ばれる学習指導要領が施行されてきたが、2002年からの新しいゆとり教育の学習指導要領では、中央教育審議会答申 21世紀を展望した我が国の教育の在り方について, 第3部第1章 1996を反映しており、[生きる力]を身に付けることを目標としている。[生きる力]は、「これからの社会は、変化の激しい、先行き不透明な、厳しい時代であること、そのような社会において、子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など豊かな人間性であり、そして、また、たくましく生きていくための健康や体力である」と説明されている。また、この理念は、現在も継承されている(「生きる力」)。また1992年からの学習指導要領も、新学力観と呼ばれる創造性を重視した学力観に基づいている。こららを見る限り、日本の教育は創造性に舵を切ってから24年経っている。

アドビシステムズの意識調査によると、日本は、世界から創造的な国だと考えられているが、日本人は日本が創造的でないと考えている。なぜだろうか?創造的個人はそれなりにいるが、社会は創造的でないということかもしれない。創造活動に必要な、安心して自由な試行を行うことができ、失敗を許す環境が社会に不足しているのかもしれない。SNSでの足の引っ張り合いや、出る杭は打たれるといった意識、高度経済成長やバブルの幻想から、日本人の多くが脱却することで、はじめて創造的な社会が実現するのではないだろうか。創造活動に伴う誤りや失敗を許し、お互いに安心して斬新なアイディアを試せる、そんな社会にしていくことを目指したい。

謝辞

子育てで常に手本を見せ、適切な助言を与え、本稿にもコメントしてくれた妻の長谷川祥恵に感謝する。また、本稿を書く直接のきっかけとなったCOI2021の会議の企画者、参加者に感謝する。