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メディア技術とアートの関係

はじめに

私はバーチャルリアリティの研究をしています
バーチャルリアリティはメディア技術としての側面を持つので、技術を見せるためにも、何かしらデモという名の作品を作ることになります。
動くものを触れた感覚を再現する技術を見せるために歩きまわるカブトムシをつかむというデモを作ったり、流体を触れた感触を再現する技術のためにカヌーの川下りのデモを作ったりしました。
これらは技術のデモでありアートではありませんが、他人に技術に興味を持ってもらい、その効果を分かってもらうためには、技術を一番よい形で分かってもらえる、できれば楽しく分かってもらえるようなデモを作ることになります。
メディアアートの展示を見ると昔から興味をひかれ、大学学部やもっと前から、見本市や博覧会などと共に見に行くようになっていました。関係はあるけど違うものだなと感じつつ、よくわからない状態が続いていました。

JSTさきがけの原島先生領域で研究させていただき、アート&エンタテインメント研究会に関わってから、よりアートに興味を持つようになりました。作家でなく芸術の教育を受けていない分野違いの人間ですが、とても大雑把に捉え、説明して納得したいと思いました。
自分が納得するためにした勉強の備忘録と、同様な人の役に立つかもしれないと思い、勉強した事のメモを書いてみます。

芸術の哲学の効能

作品は、説明ではなく、体験し直接感じるものです。一方で学者は文章で説明をして理解し納得しようとします。
自然科学の対象は自然ですが、哲学は自然に限らず何でも対象にできます。自然科学では物の捉え方や説明のやり方が大体同じですが、哲学者は一人ひとり説明の仕方が異なります。新しい説明の仕方を見つけると名前が残る哲学者になるのだと思います。

渡邊二郎著「芸術の哲学」は、哲学者達の芸術の説明を引用しつつ芸術とはなにかを説明しています。この本は私にはとてもおもしろかったです。目次は次のとおりです。
・技術における虚構と真実
アリストテレスの『詩学
・ミメーシス、カタルシス、ハマルティア
ニーチェの『悲劇の誕生』
ディオニュソス的なものとソクラテス主義
ハイデッガーの芸術論
・ガダマーの芸術論
フロイトの詩人論
ユングの詩人論
ショーペンハウアーの世界観
・芸術の慰めと苦悩の現実
・カントの『判断力批判

これを読んでから、作家や芸術の専門家の話を聞いたり書いたものを読むと、随分納得いくようになります。芸術についての言説は一見矛盾に聞こえることが多くて、いつも惑わされてました。
#以下、手許に本がない状態で書いてるので、後で直します。
よく自己表現 ( http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1228857832 ) と言いますが、最後のカントによる「構想力(感性)と悟性(理性)との自由な戯れ」によって偶然認識される美( http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1436410599 )を作るのが作家ならば、作品は作家の感性と理性を表現した自己表現だということになるのだと思います。
カントは内側から人間を説明するので、こうなってしまうのですが、
人間を客観的に説明するハイデッガーの説明だとより普遍的なものに見えてきます。
人は環境に埋没しながら生活しますが、生活の中での認識はその時々の行動のためのものであって、次の瞬間には忘れることがほとんどです。
日常では認識は流れてしまうし、純粋な、理想的な、認識は得られません。
理想的な認識を提供し、日常ではちゃんと気付かなかった事を発見させてくれる装置が芸術作品だというのがハイデッガーの説明の一部です。
この説明だと、アートは、日常の見本というか、純粋で極端な点で、ぼんやりと流れてしまう日常に対して、ピンを打つ役割を果たしそうです。アートが批判機能を持つというのは、グダグダ文句をつけるということではなくて、本来どうあるべきかを考えるための支点になるということだと思います。

なので、アートの機能は批判だけでなく、目標や見本になることで、
デザインやエンタテインメントといった、使う人をHappyにしたい、楽しませたいといった特定の利用者や目的を持つ作品を作る人にも役立つわけです。

デザインやエンタテインメントは、目的が別にあるので、普通純粋化はしません。できるだけ誰に対しても目的が果たせるように作ります。
でも、アートの表現や手法を参考にしないわけは、ないわけです。