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テスラ Model Sの体験

深セン見学会でお知り合いになれたshaoさんが主催するTESLA TEST DRIVE for GEEK(他の方のブログもこちら)に参加させていただき、半自動運転機能を持つテスラModel Sに、高須さん、okkakiiさんと共に乗り、運転もさせていただきました。

テスラという社名からニコラ・テスラを連想し、相当なぶっ飛びようを想像していましたが、乗っみた感覚としては初代プリウスよりも自然な操作感で、中央の巨大iPadもどきのような操作パネルが目を引くほかは、意外と普通の高級車に見えました。
また、静粛性や後部座席の心地よさならばトヨタの高級車の方が完成度高いとも思います。しかし、テスラへの印象はこの後どんどん書き換わりました。

 

急速充電スタンド

まず、お台場未来館の隣りにあるテスラ専用急速充電スタンドに向かい、30分ほど充電しました。充電操作は非常に簡単で、昔のアメリカのスタンドの給油機を連想させつつ未来感十分なデザインのスタンドのホースを緑に光る給電口に挿すだけです。説明も音も操作も不要です。そのプラグも直径3cm程度で、120kWのケーブルとしては最軽量の取り回しです。
充電の費用は車本体の代金に含まれているそうで、他に何も操作できるものはありません。でも、どの車にどれだけ充電したのかはきちんと把握できているそうです。この時は、見た目と充電スタンドへの配電の太さに驚きましたが、それ以上の感想はありませんでした。

しかしその後、高速道路のサービスエリアにある日本製の充電スタンドに驚かされました。多分、東電NEC製のスタンドを見たのですが、テスラのカッコよさとは全く違うもっさりとした箱でした。ここで逆にテスラがなぜスタンドの給油機に似せたのか分かりました。
まあ、試作で社会実験のつもりだろうから仕方ないねと思って近づくと、液晶画面とタッチパネルが付いている上、説明書きの紙がペタペタ貼られています。ただ充電するだけのために、なぜこんなに注意書きが?とBADUIという語が頭をよぎります。直径8cmもあろうかという巨大コネクタに対応するため、テスラは変換ケーブルを用意しています。持ち上げるのも一苦労のコネクタにケーブルを介してテスラに繋ぎ、決済用の謎のフェリカカードをかざし、いよいよ充電が始まるかと思いきや、車が壊れていると宣うのです。しかもshaoさんによると、昔はこの状況で課金もされていたそうです。後ほど別の場所でも試しましたが、車のせいにはしなかったもののやはり充電できませんでした。日産がリーフのために自社でスタンドを整備するわけがわかりました。EVの普及が進まないわけです。

充電の間に、高須さんが持ってこられたNinebotという小型のセグウェイに乗せて頂きました。セグウェイ電通大に居る時に遊ばせていただいたのですが、その時の感想は「スキーと左右の重心移動の感覚が似ていてショートターンができる」でした。小さいほうが若干難しいのですが、Ninebotのスマフォアプリに従って練習すると3分くらいで乗れるようになります、すぐにはスキー感覚は得られなかったのですが、最後にはスキーの感覚が再現でき、膝と足首だけを使った極小刻みなターンになることが分かりました。

半自動運転

そんなことをしているとshaoさんのスマフォには充電終了の通知がとっくに来ていて、いよいよ運転させていただきました。早速電気の急加速を試すと、数秒で制限速度まで加速します。それもガソリン車のようなエンジン全開の頑張りというか苦しさは全く無く、涼しい顔での急加速です。
首都高の合流ではその威力が発揮されます。加速しすぎて前との車間に気を使うほどでしたが、そこがまたよく出来ていて、アクセルの角度の変化に応じて加速だけでなく減速もするという、峠道をセカンドで吹かす時のようなやたらエンジンブレーキがよく効く挙動が標準です。普通のオートマのような設定もあり、中央のiPadもどきでリアルタイムに変更できるのですが、テスラの加速にぴったりなのはデフォルトの峠道モードでした。

首都高の合分流が一段落するといよいよ自動運転です。ハンドルの横にはウィンカーとは別にクルーズコントロール用のスティックが付いていて、パッシングをするように手前に引くとオートクルーズ、さらにダブルクリックすると自動運転に入ります。速度は上下で設定です。自動運転は基本的には画像で車線を読み取り、車線の真ん中を走りながら、周囲の車の動きを見ながら速度=車間を自動調整します。普段のアクセルとハンドルの操作を自動化してくれるわけです。

全自動ではないので自動運転を監視し必要なときに介入しないとならないのですが、そのUIがまた秀逸です。スピードメーターの下にあるカーナビ兼自動運転モニタに認識状況が自然に示されます。白線が読み取りにくい、バイクが認識できた等の様子が伝わってくるので、安心して様子を見つつ必要なときに介入できます。HUDでないのは残念ですが、当時の法令のためでしょうか。

ハンドルは当然バイラテラルで、自動運転中は勝手に動くハンドルを握って自動運転の意図を力で感じ取ることが人間の役割です。そのまま少しだけ力を加えるハンドルを回せば、すぐに自動運転が解除されます。この辺の操作系の設計思想はクルーズコントロールの拡張だと思えば当たり前ですが、完成度が高いと思いました。
また、車線変更もウィンカーを出すと周りの様子を見ながら自動で行ってくれます。これはなかなか高度だと思いますが、非常に的確な運転で安心して任せられました。

私の危なっかしい運転を忍耐強く許してくださったshaoさんのおかげで、自動運転の限界をかなり試すこともできました。まずカーブの曲率に応じた速度制御は自動ではやってくれません。ずっと先の曲率の変化を読むことはまだできないので、思い切って切り捨てたのだと思います。白線が見えない場合も素直に警告音と共に手動に戻ります。でも意外としぶとく、片側が見えていればなんとかなるため、三郷の料金所では一番右車線のETCゲートを完全無操作で通過できました。

監視業務が残るなら自動化意味なしと思われるかもしれませんが、ドライブの楽しみは残して、一番面倒な混雑時の車間制御や車線の中央を走るなどの単純で辛い作業を肩代わりしてくれるのは嬉しいものです。混雑時、渋滞時の運転が本当に楽になります。
いつでも無操作で通常モードに戻せますし、自動運転に戻すのもダブルクリック1回なので自然で、運転の喜びが損なわれません。
監視業務も、最初はこちらが挙動を理解していないためには気を使いますが、慣れてくるとどんどん楽になります。

テスラが実現したことの意味について

上記のとおり、十分欲しくなる完成度の半自動運転機能ですが、これが購入時にはゼロ、レバーにも機能がなかったというのだから驚きです。その状態で買うshaoさんもすごいですが、その状態で売れることと、あとから自動運転機能を付けられることを見きってまずハードを売り、ソフトのアップデートを続けるという決断をしたと思われるテスラのCEOのイーロン・マスクという人は一体どういう人なのだろうかと思いました。
充電スタンドのことから考えても、テスラはEV利用の体験全体を、実際に何が起こるか全て考えた上で優先順位が高くすぐできることから全部やっていると思います。まずはEVの加速性能と環境性能がもたらす気持ちの良さから始め、未来の自動車といえばみなが思い描く自動運転を後から付加する。スマフォのようにアップデートされる車というのも、目的のための単なる手段だという気がしてきます。まず理想形をゼロから考えて、現時点からスタートしてそこに到達するための道筋を描き、その実現に向かって全力で模索を続けているのだと。

世界で最初に自動ハンドルを実現する、それも既に走っている車にある日機能を追加するという方法で。どれだけ不透明な中で進めたのか想像できないし、運が良かったのかもしれませんが、出来る限りの情報収集と各国政府の動かし方を研究したのではないでしょうか。技術よりずっと難しいと思われる社会の未来予測もやってのけ、エネルギー問題の解決という夢に向かって突き進んでいるのでしょう。日本製EV充電スタンドの状況とのコントラストはあまりにも強く、頭がクラクラしてしまいます。

イーロン・マスクが目指すエネルギーの夢は、映画トゥモローランドのような1960年代の夢にも見えます。科学技術が人類の諸問題を解決して人々を幸せにしてくれるとてばなしに信じていた、大きな物語が健在だった頃にだけ有効だった、来なかった未来を追う夢だと思っていました。人々の望みが細分化した現在、そのような夢を追うことは難しく、資本主義と民主主義が求める個人の幸福の追求とは相容れない夢だとさえ思っていました。テスラは、そんな悲観的な私の考えを上書きしてくれた気がします。

テスラの悪そうなデザインは、このメンバーだけが行くことができる秘密の未来都市の夢と重なります。テスラはトゥモローランドへのバッジなわけです。未来館横にある何の変哲もないTime24ビルの地下駐車場にひっそりとスーパーチャージャーが並んでいる光景も、パレスホテルのバレーサービスもこの文脈にピッタリです。現時点で普及に至っているのは利用体験だけですが、テスラは充電のための家庭用ソーラーパネル、電力グリッドの負担を減らす蓄電池と、エネルギー問題解決の夢を実際に進める事業を進めています。体験から実体、思想までを含んだ事業と、それを支持し購入する人々によって、資本主義と民主主義の下で未来への扉が開かれようとしています。

現在テスラは、モデル3の予約殺到対応、モデルSの販売減、初の自動運転事故と、相変わらず多くの挑戦を余儀なくされていますが、エネルギー問題の解決という使命をもって全力で突き進む姿とそれと一体になれることの気持ちよさは、他の何にも代えられない価値を持つと信じたいです。

深圳(深セン)のスタートアップ環境を見学して受けた衝撃について

高須正和さんのニコ技深観察会に参加させてもらいました。
いくつかのことに衝撃を受け、まだ落ち着きませんが、思ったことを書いてみます。
深圳やツアー自体のことは、高須さんが本を書かれています(メイカーズのエコシステム 新しいモノづくりがとまらない)し、参加者のブログのまとめにありますので御覧ください。

詳細な一瀬卓也さんのレポートShinzhen Open Innnovation LabのDavid Leの講演HAXの講演(音声遠いです)で、ツアーのかなりの部分が再現されると思います。HAXは去年のものも見つけましたが1年で結構変わっていました。

1. 分業と市場

私の受けた衝撃は、結局は深圳自体にではなく、これまでの自分のやり方の限界に薄々気づいていたけど、それをはっきり見せつけられたというのが本質のようです。

私は器用に何でも自分でやる方で、機構、電子回路、制御、物理エンジン、コンピュータグラフィクス、Webシステムなど、詳細まで中を知った上で、自分で1から作ることを基本にしてきました。
NIH(Not Invented Here)症候群とも呼ばれるやり方ですが、自分で作ってみて初めて納得するというやり方は、理解を深めるには良い方法です。
ライブラリやOS、ICはもちろん使いますが、中を理解した上で使うことを基本にしていました。このやり方は深く理解している分良い物ができます。全体を細部まで見ているのでどんな問題にもすぐ対処できますし、限界もすぐ分かります。あることを研究したければ、必要な技術を一通り身に付けるべきだという信念は今も変わりません。

けれどもこのやり方はデザイン思考でのイノベーションには向きません。全部自分でやるので時間が掛かりますし、多くの階層を同時に相手にすることになるため、上層での問題解決に気づきにくくなることもあります。
仕組みは気にせず、既存のライブラリの仕様と使い方だけ覚えて、適当なスクリプト言語で繋ぐ。マイコンボードもモータドライバも、一から起こすのでなく既成品を繋いで済ませる。こういったやり方には気持ち悪さを感じますが、使えるものは何でも利用して早く作り上げないと、せっかく思いついたアイディアが世に出ずもったいない。専門と違うからといってアイディアを諦めるより、さっさとプロトタイプを作りKickstarterに出してみて世に問うというやり方のほうが良いという証左を見せつけられた気分です。
せっかくアイディアがあっても専門と違うために捨てるということが、研究者の世界では沢山起きている気がします。他の人と協力して1年くらいでものにしてさっさと次に行くことができるなら、自分の研究が進まなくても世のためになるでしょう。

当たり前のことですが、世界には沢山の人々がいて分業できるので、上手く切り分けた方が上手く行く確率が上がります。他の人が作った世界一の成果を使わせて頂いて、自分の担当部分を世界一にして他の人に使っていただく方が、全部自分で作って満足と安心をするより効率が良いわけです。このやり方で深い研究ができるかは疑問ですが、深圳で起きている市場経済と技術の分業の到達点は無視できないと思いました。

深圳観察で分かったことは、ソフトウェアだけでなく、ハードウェアもオープンな市場で流通してしまえば、オープンソースソフトウェアのようにコミュニティができてどんどん進歩していくということです。そのためには、需要が必要ですが、深圳には消費者に独自ガジェットを売る市場ができていて上手く動いています。
日本では大企業が作った完成品だけが消費者に売られ、秋葉原で部品やキットを作るのは趣味か教育目的だけという状況が続いていましたが、深では山塞(山賊のすみか)と言われるスマフォやタブレットなどハードウェアの海賊版が売られていたそうで、小企業が消費者に製品を売るという市場ができていたようです。
今回は山塞は見つけられませんでしたが、アクションカメラやスマフォのアクセサリー、モビリティ、玩具などにはオリジナリティの高いものが沢山ありました。

2. 起業を支援する企業HAX

もう一つは、投資についてで、こちらは不学だったと後悔しています。銀行の本来の役割が、事業を評価して、行うべきか止めるべきかの判断をすることだとは知っていましたが、ベンチャーキャピタルの中でも最初期の段階に投資するエンジェル投資家が、起業家を助け、支えることまでは知りませんでした。自分の資本を出して当事者になった上で、事業成功のために働くわけです。さらに支援に注力した仕組みをアクセラレータと呼ぶようです。アクセラレータは沢山の事業提案の中から、上手く行く事業=何らかの価値を生み出す事業を選び出して、その事業に投資することで当事者になり、事業を成功させていくわけです。
今回、HAXという、深の中心の華強北にあるハードウェアスタートアップ専門のアクセラレータを見学できました。HAXはKickstarterに出す前の3名程度のチームに株の9%と引き換えに投資と支援をします。HAXにはマーケッティングとデザインのチームもあり、起業家のアイディアと技術を補間します。私には起業しながら学ぶことのできる場に見えました。
HAXの方法は大企業が既にある事業の継続や改良を行うのと比べると、責任(投資)の範囲を明確化した上で大きなチャレンジができるはずです。HAX(のメンター)自体はアドバイスや支援はしても事業の主体は起業家なので、HAXは経験を活かして多くの事業を平行して進められるのだと思います。

ある考えを広めるための方法として、論文や著書や講演は良い方法だと思いますが、これだと自分で事業はできません。会社で働くと手出しはできるが考えられず、起業すると両方できるけど一つのことに集中せねばなりません。
起業家が成功した後どうするのかに興味も持っていませんでしたが、アクセラレータになって多くの事業に関わるというやり方を今回初めて知りました。HAXは世界初で最大のハードウェアアクセラレータだそうですが、前述の状況がシリコンバレー資本のHAXを深に引き寄せたのでしょう。年30件採用/1000件応募だそうですので狭き門ですが、最高の場だと思いました。起業家はプレゼンしている場合ではない、プロトタイプを作るために時間を使うべきだという言葉には、日本は技術者と経営が乖離していると感じている身には羨ましい限りでした。また、(大当たりする)ユニコーンのことは忘れよう、投資家はコックローチを探すべきときだという言葉にも感激しました。小さな発明でも小さく事業化して社会に還元しないともったいない、先進国(深を含む)はそこもやらないと、と近頃思っていたので、意を得たりと強く同意しています。

3. スタートアップを支えるSeeed

Seeedは、ハードウェアスタートアップからの受託開発を請け負う会社で、試作、小ロット量産、大量生産、宣伝を英語で受注する会社です。自らも2008年創業のスタートアップで、ハードウェアスタートアップに必要なことを熟知した上で、どの段階からでも請け負うという心強い会社です。現地に行って対面で協働する必要はありますが、すべて英語でできてしまいます。中国の現地生産とHAXが呼び寄せる国際的なスタートアップの間のインタフェースを一手に引き受けているのだと感じました。
また、Seeedは自らオープンソースのハードウェアを多数製品化しており、趣味・事業にかかわらずMakerを支えています。ここでもオープンソースへのこだわりを感じました。著作権と特許で技術流出を守る欧米日に対して、苦労しながら追いついてきたわけですから、ここでは、GPLとオープンイノベーションこそが正義なのだと思います。逆に市場までの距離が遠く、囲い込まないと回収できない技術には手が出せないのかも知れません。

4. 投資家、産業界、政府が一体となって進めるスタートアップ支援

では人件費の高騰で単純な大量生産の工場はより奥地に移転して行くという状況が続いているところに不況が拍車をかけ、新製品開発力が何より大切という認識が広まって創客(=Maker)を重視していました。最近1~2年の間に深には、DMM.makeのようなMakerスペースが沢山できています。華強北の電子部品の商業ビルSEG(賽格)の上層階には、家賃大家持ちのMaker Spaceがありました。Maker Spaceのような環境自体は日本の大学にもありますし、DMM.makeも販売・流通まで支援していて素晴らしいと思いますが、深ではそこに投資家が2週に1度くらい来てスタートアップの候補を探しているそうです。
私の勤務先の大学でも、デザイン思考に基づく問題解決やものづくり教育と、アントレプレナーシップ教育が行われていますが、両者はまだ連携できていません。会員になれば誰でも自由に使える場で投資家が入り込んだ先進的な取り組みがされているのを知って、今から何をするのがよいのだろうかと考えてしまいました。
大学発ベンチャーのためのインキュベーション施設は、十数階建ての高層ビルが10棟近く大学の目の前に建っている状況でした。しかも、高性能独自設計マイコンボードとクラスタコンピューティングで始まったスタートアップが、自転車のホイールで動画再生をする電飾というコンシューマ向け製品の開発を始めていました。
こういった、官民挙げてのスタートアップ支援の全体像は、Shenzhen Open Innovation Lab での David Liの講演 https://www.youtube.com/watch?v=KmUrQtWbPrg を聞かせて頂いて理解できました。

5. 自分はどうしたら良いか

時間をかける価値があると信じるアイディアには、今まで通り研究としてじっくり取り組むので良いと思います。けれど、そうでないアイディアで勝負したいときや、そう希望する学生が研究室に来た時には、スタートアップなどそれに最良な道で進められるようにしておきたいと思うようになりました。
例えば、自分の研究で一番に思うのはぬいぐるみロボットの機構です。新規機構が研究・論文化され、デモロボットがメディアに取り上げられても、その研究者がやめてしまうとそれっきりで誰もそれを作らないということがあるように思います。数十年後でも価値を持つような原理ならばまだ良いのですが、使える材料や需要の変化もあるので今だからこそという機構もあります。とくに、設計制作に標準外のスキルを必要とする機構は、なかなか再現して試してもらえません。また、ロボットには、機構だけでなく回路や制御が必要で、更にその上にソフトウェアを積み上げないと実用になりません。ソフトの研究者には一からハードウェアを作ること、それを動き続けるようにメンテすることは荷が重いので、市販のロボットやセンサなど一部だけを作って研究するということになりがちです。そのため、ロボット向けの新規機構研究に意味を持たせるためには、大きな研究グループを組むか、その機構をソフトウェア研究者が購入できる状態にしなければなりません。そして、市場による効率化が働くのは後者だけです。
もちろん、機械要素の研究など、計測や試験のための技術や設備が必要になり、大学や大企業でしかできないこともあります。月並みですが、課題に適したやり方で研究開発を進めるのが良く、その選択肢として深、HAX、Seeedを知らないのは危険だということが、私の結論です。HAX、通ると良いなあ。

創造性教育について

すごく久しぶりですが、創造性とその教育について考えていることを書いてみます。

概要

まず、創造活動が、思いつき、試し、観察し、考え、また次のアイディアを思いつくという繰返しからなる活動であることを指摘し、失敗や誤りを恐れずに試せることの重要性を指摘する。次に人が生きる力を、社会の持つ知識の継承により得られるものと創造活動の2つに分けて考え、前者のために後者が犠牲になり得ることと日本社会の立場主義の問題点を指摘する。さらに、「意識高い系」がどうやって生まれ、どう導けば良いか、プログラミング教育、乳幼児期にできることは何か、など各論を考察し、最後にゆとり教育の理念とその実現に必要なことを考える。

創造活動とは

創造とはどのような活動だろうか?思いついたアイディアを自由に試し、その結果を観察し、考え、また次のアイディアを思いつき、試し、観察し、考える。思いつき、試し、観察し、考えるという繰返しが、創造の基本だと考えられる。

創造的な活動の典型を考えてみると、例えば芸術作品の制作プロセスはこの過程を経る場合が多い(芸術表現の捉え方についての一考察)。一見この過程をとらない作家でも、頭の中では絶えずこの過程を繰り返していると考えられる場合が多い。

ソフトウェア開発も創造的活動の典型と考えられるが、その基本のプログラミングも、コーディングし、実行結果を観察し、不具合の原因を考えて修正案を思いつき、またコーディングするという繰返しからなる。

創造活動に必要なこと

創造の繰返しは、まずなにか思いつき、試すことが必要になる。このとき、試す前に、思いつきが間違いでないだろうかとか、うまくいかないかもしれないとか心配を初めてしまうと、思いついたことを試すことができず、そのうち思いつくこともなくなってしまう。間違えても良いので、いろいろ試すことが大切だと考えられる。失敗に対する心配は、いろいろ試すことを妨げる。このため、自由に試すためには、まず、失敗しても許されること、安心できることがどうしても必要になる。

次に、結果を観察し考える時間が必要となる。試したあと、気が済むまで観察し、次の一手を思いつくまで考える。この時間をしっかり取ることがなければ、次の一手を思いつけない。ある試行が正解か不正解かということは、試行の都度分かるものではない。なぜなら現実世界では目的を達成する手段は無数にあり、どの試行がその手段の一部であるかは、ある程度進まないとわからないからだ。この段階でしっかりと観察し考える時間を取ることはとても重要だと思われる。

創造性と社会性

おそらく、人は生まれながらに創造性を持っている。我々は、試行錯誤の繰返しの末、上手く子孫が残った生物の末裔のはずだから。一方で人は社会を作る動物で、社会を維持しないと子孫を残すことが極端に難しくなる。社会が持つ科学技術、文化、しきたり、ルールは人が生きていくために大切な知識や技で、これを習得することも生きていくために大切なことだろう。こういった知識や技の教授者から受容者への伝達では、知識や技に正解があり、正確に伝達するためには、叱る褒めるなど評価を伝え、教授者の考える正解を受容者に伝える必要がある。

人が生きていくためには、社会から知識や技を受け継ぎつつ、創造活動と呼ばれる試行錯誤により実際の課題を解決していくことの両方が必要なのだと思う。

創造性の芽を摘まないために

この2つをきちんと区別し、両方を尊重しないと、困ったことになる。教授者のいうことを聞き、観察し、自己の理解と比較し、いつも間違いなく記憶する知識受容ばかりを繰り返せば、間違いを犯すことを恐れ、試行錯誤をしなくなるだろう。逆に、何も受容せずに創造活動だけを行っていれば、社会が持つ知識を活かすことができず、父母を知らない卵生の野生動物のような生き方しかできなくなる。

日本で創造性教育の必要性が高まっているのは、徴兵や高度経済成長を支える労働力を生み出すために、知識受容に偏った教育が乳幼児期から大学学部まで行われて来たことが原因として考えられる。(なぜ日本の男は苦しいのか? 女性装の東大教授が明かす、この国の「病理の正体」)は、日本の親が今でも「靖国精神」の価値観から抜け出せておらず、育った子は、誤りを侵さず立場を守るために必死になっていることを指摘している。創造性が生き物が本来持つ性質だとするならば、それを社会性のために摘み取ることさえなければ創造性を持つ社会が実現できるはずだが、立場を守る「靖国精神」に包まれた社会では自由に創造活動のための試行錯誤を行うことは難しい。

乳幼児期の教育について

赤ん坊はとにかく何でも試してみる。手足の動かし方、ハイハイの仕方、歩き方、みな試行錯誤を繰返し身に付ける。物を口に入れて味を知ったり、ソファーによじ登って落ちたりと言った試行錯誤は、創造活動に他ならない。しかし、創造性が大切だからといって、放って置くわけには行かない。下手なものを誤飲すれば窒息死するし、高所から転落する危険もあるだろう。命を守るために必要な最小限の知識は何としても伝達しなければならない。このような不幸な死が起こらないようにするためか、赤ん坊は常に保護者の顔色を伺い、危険を察知するようにできている。また保護者から離されれば危険を感じて泣く。

創造性の芽を摘まないために気をつけなければ行けないのは、不必要に乳幼児の行動に干渉することだ。何か思いつき、試しているところで、親が正解を示してしまえば、結果を観察し考え、次の一手に繋がるアイディアを思いつくの部分ができなくなってしまう。せっかく試そうと思ったことを、顔色や声色で禁止されれば、思いついたアイディアを試すことが怖くなってしまう。命や健康に関わるなど、大きな問題が生じないかぎり、乳幼児の試行錯誤を許し、安心して試行錯誤できるようにすることが重要だと思う。また、試行錯誤に親が関心を示し、喜べば、乳幼児は親がその行動を歓迎していると考え、また試行錯誤を繰り返したくなる。関心を持ち、安心させ、不必要な干渉はしない、これが乳幼児を上手く愛する方法ではないだろうか。特に質が悪いのは、親が愛情を使って乳幼児の行動を制御しようとすることだろう。乳幼児は親の愛情=親の関心と許諾の下で活動するように本能付けられている。この本能を利用して親の行動規範を子供に押し付ければ、子供は親の行動規範を越えた試行錯誤を行うことができなくなる。

もう一つ挙げるとすれば、創造活動を行う機会を増やすことにも効果があるだろう。自然の中には、簡単なものから難しい物まで様々な因果関係が織り込まれている。自然の中で遊ぶことで、少しの試行錯誤で現象の仕組みがわかって喜んだり、なかなか仕組みが分からない現象を不思議に思いつづけたりという経験を、身体を使って試しその結果を感覚する。こういった活動は創造性の原点になるだろう。スポーツも自分の身体を動かし感覚することで、身体と競技の特性を探りながら身体の動かし方を知るという楽しみ方ができれば、創造活動だと思う。

知育玩具やテーマパークのアトラクションでは、設計者の設計通りの体験をして楽しむだけになり、アイディアを活かすことが難しいかもしれない。それでも、その玩具やアトラクションの通所の楽しみ方を越えた楽しみ方を見つけたり、思いもよらない組合せを見つけることができれば創造活動となる。こういった活動を親が面白がることで子供も面白いと感じ、また新たな創造をする動機にもなるだろう。こういった時にも危険がなく著しい迷惑が周囲にかかることがなければ、好きなように試行錯誤できることが大切である。

学部3年までと研究室配属後の断絶

従来(少なくとも1990年代)の日本の教育では、大学3年生までは授業を受けて試験で良い点を取るという勉強=知識受容活動が定着していた。この制度で学生は、学部4年になり研究室配属に配属されると、突然卒業研究を行うことが求められ、それまでとは全く異なる創造活動を求められることになる。このため、研究テーマが決められず研究に手がつかず、6月~秋頃までに研究室に行くのが辛くなるということがよく起きていた。これが、近年すこし緩和されていると感じている。創造性教育の成果かもしれない。

意識高い系をどう応援したら良いか

近年、イノベーション教育、創造性教育という掛け声と合わせて、「意識高い系」と呼ばれる学生が現れている。意識高い系学生は、自分が創造的であり、創造性を大切にしているかのような振る舞いをするが、実際には創造的でない学生のことを呼ぶ(実際に創造的ならば、普通に「創造的な学生」と呼ばれる)。例えば、付箋紙やアイディアノートを持ち歩き、何か思いつけば書きとめ、アイディアの説明やディスカッションをどこででも始め、話し合いでは積極的に発言し、PBL(プロジェクトベースラーニング=ものづくりや問題解決などを行うことによる学習)の授業や学外のアイディアソン、ハッカソンといった創造性教育に片っ端から参加しているが、その内容はネットにあふれる典型的なアイディアにとどまり、実物や現場が持つ固有の事象に基づく創造的な内容を持っていない。というような人のことだ。このような学生を近年たまに大学で見かける。

このような現象がなぜ近年起きたのだろうか?根拠はないが推察を書いてみる。
2000年ごろに、イノベーションと名の付く研究科が設立されている。また、中学・高校での創造性教育ゆとり教育の世代がこの頃に大学3年生になっている。これらの学生は、乳幼児期0ある時点まで、知識習得型で試験で間違えないことに価値を置く教育を受けていたのが、途中から創造性を持つ必要があると言われて、創造性教育を受けている。知識受容が得意な学生が創造性教育を受け、形から入れば、まずは「意識高い系」にならざるを得ないだろう。創造性についての知識を受容し、教授者のやることを真似て技法を習得することになる。しかし、乳幼児、幼少期から続く知識受容の教育により、誤りを犯すことがすっかり怖くなっているため、ランダムに現れるアイディアの素が意識に昇ることもめったになくなっている。観察し考えることも慣れていないため、次の一手となるアイディアを得ることもできず、記憶しているパターンから妥当そうな物を取り出すが状況にあったアイディアではない。これが、「意識高い系」の内部で起こっていることだろう。

しかし、「意識高い系」の努力をばかにしてはいけない。これまで創造活動をしてこなかったのだから、すぐにできるはずはないが、始めなければいつになってもできるようにならない。まずは「意識高い系」になり、自己が靖国精神や立場の呪縛により誤りを犯すことを恐れているという現状を認めることからはじめることが必要だろう。その上で、上手く行かなくても試行錯誤を周囲が尊重し、例え大きな失敗をしても許し、冷静な観察と思考から生まれる次のアイディアに期待する。このような環境が用意され、創造活動を続けることができれば、発想の抑圧が減じ、観察し考えることにも慣れ、創造活動が次第に得意になっていくのではないだろうか。

大学での創造性教育

大学でのPBLを担当して思うことは、できるだけ、禁止事項を少なくし、誤りがあっても良いように余裕を持たせ、自由に行うのが良いと思う。意識高い系を生むだけだと批判を受けるかもしれないが、講義を通じて創造活動の価値を公認するだけでも意味があると思う。また、創造活動には時間がかかるので、科目数が増えすぎないような工夫も必要だと思う。アイディアを出してまとめてプレゼンテーションするのでは試行錯誤のやりようがないため、創造活動は難しい。PBLを行うならば、何らかのものを創造するプロジェクトであることが必要だと思う。

プログラミング教育との関係

残念ながら、日本人にはプログラミングが得意な人が少ないという声を多くの情報系の大学教員から聞く。プログラミング教育が遅れているからかもしれないが、ここでは別の原因の指摘を試みる。

プログラミングでは、書いたプログラムの動作を確認し、意図と異なる部分を修正するデバッグという作業が重要だ。デバッグができるかどうかが、プログラミングできるかどうかを左右すると言えると思う。デバッグでは、自分の書いたものが意図通りでない(=正解でない)ことを前提に、プログラムの動作を観察し、問題点を見つけ、解決策を考え、修正する必要がある。このため、間違えても良いので試すことが重要で、試して直してまた試すをどのくらいのサイクルで行うのが良いかの感覚を得ることがデバッグを手早く進める技能の基礎になる。私もC言語入門の授業上級編を担当したことがあるが、コンパイラのエラーメッセージの意味やデバッガの使い方を最初に教え、とにかく試行錯誤を沢山繰り返せるようにすることを中心に行った。結果、ロボット系サークルのプログラミングの得な学生によると、受講生は、プログラミングが難しくあまりできなかったという感想を持っているが、プログラムさせてみると従来よりよくできたそうだ。

ゆとり教育の理念と創造的社会

1980年からゆとり教育と呼ばれる学習指導要領が施行されてきたが、2002年からの新しいゆとり教育の学習指導要領では、中央教育審議会答申 21世紀を展望した我が国の教育の在り方について, 第3部第1章 1996を反映しており、[生きる力]を身に付けることを目標としている。[生きる力]は、「これからの社会は、変化の激しい、先行き不透明な、厳しい時代であること、そのような社会において、子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など豊かな人間性であり、そして、また、たくましく生きていくための健康や体力である」と説明されている。また、この理念は、現在も継承されている(「生きる力」)。また1992年からの学習指導要領も、新学力観と呼ばれる創造性を重視した学力観に基づいている。こららを見る限り、日本の教育は創造性に舵を切ってから24年経っている。

アドビシステムズの意識調査によると、日本は、世界から創造的な国だと考えられているが、日本人は日本が創造的でないと考えている。なぜだろうか?創造的個人はそれなりにいるが、社会は創造的でないということかもしれない。創造活動に必要な、安心して自由な試行を行うことができ、失敗を許す環境が社会に不足しているのかもしれない。SNSでの足の引っ張り合いや、出る杭は打たれるといった意識、高度経済成長やバブルの幻想から、日本人の多くが脱却することで、はじめて創造的な社会が実現するのではないだろうか。創造活動に伴う誤りや失敗を許し、お互いに安心して斬新なアイディアを試せる、そんな社会にしていくことを目指したい。

謝辞

子育てで常に手本を見せ、適切な助言を与え、本稿にもコメントしてくれた妻の長谷川祥恵に感謝する。また、本稿を書く直接のきっかけとなったCOI2021の会議の企画者、参加者に感謝する。

メディア技術とアートの関係

はじめに

私はバーチャルリアリティの研究をしています
バーチャルリアリティはメディア技術としての側面を持つので、技術を見せるためにも、何かしらデモという名の作品を作ることになります。
動くものを触れた感覚を再現する技術を見せるために歩きまわるカブトムシをつかむというデモを作ったり、流体を触れた感触を再現する技術のためにカヌーの川下りのデモを作ったりしました。
これらは技術のデモでありアートではありませんが、他人に技術に興味を持ってもらい、その効果を分かってもらうためには、技術を一番よい形で分かってもらえる、できれば楽しく分かってもらえるようなデモを作ることになります。
メディアアートの展示を見ると昔から興味をひかれ、大学学部やもっと前から、見本市や博覧会などと共に見に行くようになっていました。関係はあるけど違うものだなと感じつつ、よくわからない状態が続いていました。

JSTさきがけの原島先生領域で研究させていただき、アート&エンタテインメント研究会に関わってから、よりアートに興味を持つようになりました。作家でなく芸術の教育を受けていない分野違いの人間ですが、とても大雑把に捉え、説明して納得したいと思いました。
自分が納得するためにした勉強の備忘録と、同様な人の役に立つかもしれないと思い、勉強した事のメモを書いてみます。

芸術の哲学の効能

作品は、説明ではなく、体験し直接感じるものです。一方で学者は文章で説明をして理解し納得しようとします。
自然科学の対象は自然ですが、哲学は自然に限らず何でも対象にできます。自然科学では物の捉え方や説明のやり方が大体同じですが、哲学者は一人ひとり説明の仕方が異なります。新しい説明の仕方を見つけると名前が残る哲学者になるのだと思います。

渡邊二郎著「芸術の哲学」は、哲学者達の芸術の説明を引用しつつ芸術とはなにかを説明しています。この本は私にはとてもおもしろかったです。目次は次のとおりです。
・技術における虚構と真実
アリストテレスの『詩学
・ミメーシス、カタルシス、ハマルティア
ニーチェの『悲劇の誕生』
ディオニュソス的なものとソクラテス主義
ハイデッガーの芸術論
・ガダマーの芸術論
フロイトの詩人論
ユングの詩人論
ショーペンハウアーの世界観
・芸術の慰めと苦悩の現実
・カントの『判断力批判

これを読んでから、作家や芸術の専門家の話を聞いたり書いたものを読むと、随分納得いくようになります。芸術についての言説は一見矛盾に聞こえることが多くて、いつも惑わされてました。
#以下、手許に本がない状態で書いてるので、後で直します。
よく自己表現 ( http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1228857832 ) と言いますが、最後のカントによる「構想力(感性)と悟性(理性)との自由な戯れ」によって偶然認識される美( http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1436410599 )を作るのが作家ならば、作品は作家の感性と理性を表現した自己表現だということになるのだと思います。
カントは内側から人間を説明するので、こうなってしまうのですが、
人間を客観的に説明するハイデッガーの説明だとより普遍的なものに見えてきます。
人は環境に埋没しながら生活しますが、生活の中での認識はその時々の行動のためのものであって、次の瞬間には忘れることがほとんどです。
日常では認識は流れてしまうし、純粋な、理想的な、認識は得られません。
理想的な認識を提供し、日常ではちゃんと気付かなかった事を発見させてくれる装置が芸術作品だというのがハイデッガーの説明の一部です。
この説明だと、アートは、日常の見本というか、純粋で極端な点で、ぼんやりと流れてしまう日常に対して、ピンを打つ役割を果たしそうです。アートが批判機能を持つというのは、グダグダ文句をつけるということではなくて、本来どうあるべきかを考えるための支点になるということだと思います。

なので、アートの機能は批判だけでなく、目標や見本になることで、
デザインやエンタテインメントといった、使う人をHappyにしたい、楽しませたいといった特定の利用者や目的を持つ作品を作る人にも役立つわけです。

デザインやエンタテインメントは、目的が別にあるので、普通純粋化はしません。できるだけ誰に対しても目的が果たせるように作ります。
でも、アートの表現や手法を参考にしないわけは、ないわけです。